浄土真宗と既成ビジネス
ある企業の経営者の方が「浄土真宗って難しくてよく解らない・・」と優心和尚に話しておられました。
するとこんな例え話で説明をしていました。
長い期間日照りが続き作物が不作で深刻な飢饉と向き合っている村がありました。
村民たちは話し合い、雨乞いで当時有名であった僧侶へこの状況を託そうという話になりました。
その有名な僧侶は「よし、私が来たからもう大丈夫。早速大きな釜に水を汲み火をくべなさい。」
村民たちは言われた通り必要なものを持ち寄り大きな釜へ水を汲み湯を一生懸命沸かしました。
その僧侶は村民達の目の前でグツグツと湯立つその釜へ何の躊躇もなく浸かり始めました。
その様な姿を見た村民は圧倒されるのと同時に、すごいなぁ~と尊敬の念を抱いたといいます。
僧侶はその湯立つ釜の中で村民の為に一心にお経唱え、雨乞いを行いました。
そしてそれが終わると、この数日で必ず貴方達の希望は叶うと言い残し山へ入って行きました。
村民達はその後も2日、3日と待っていましたが、一向に雨の降る様子は感じられません。
いよいよ僧侶を信じる村民と疑い始めた村民との間で激しい言い争いが始まりました。
その激しさが増す一方、雨はその後も降らず、結局諦めムードが村内に広がってゆきました。
その様な状況の中、薄汚れた衣を纏ったある僧侶がその村に宿を求めて立ち寄りました。
ある村民が以前の経緯をその薄汚れた僧侶に話したところ、「同じように湯を沸かしなさい」と・・
村民は話し合い、半信半疑なまま前回と同じように釜に水を汲み火をくべ湯を沸かしました。
またその湯立った釜に入る僧侶の姿を見ようと村民が大勢集まりその瞬間を待ちました。
いよいよその釜に近づき入ろうとした時、その僧侶は一人の村民を呼び何やら話しました。
その村民は両手に水の入った樽を抱え、今にも入ろうとする僧侶の脇にその樽を置きました。
するとその僧侶は何の躊躇もなくその水を湯立つ釜へとどんどんと入れ始め、そしてその釜の中へ・・
僧侶はその湯に浸かりながら「あ~とってもいい湯加減じゃ」といい放ち、心地良さそうです。
村民達は呆気にとられ、周りからは「似非の僧侶だ!」「騙された!」と声が上がる始末。
しかし罵声の上がる中で僧侶は村民達に向かって「さぁ~皆で一緒に入りましょう!」と・・・
その声に村民達からは「馬鹿にするな!」「いい加減にしろ!」とより激しい罵声が飛び交います。
だがその心地良さそうな僧侶の姿に引かれひとり、またひとりとその釜に浸かり始めました。
「あ~本当に気持ちいい」「さあさあもう争いは終わりにして入りましょう!」と輪が広がります。
大勢が心地よい湯の中で一緒に浸かっているその時に僧侶が村民に向かって語り始めました。
「どうですか? 一人よりも皆で浸かる方がずっとずっと心地よいのではないですか?」
「確かに前回の僧侶は湯立つ釜へ、そして誰も出来ないことをやってのける凄い方です。」
「しかし貴方達はそのお1人の僧侶へ託し、それで結果が出なければまたその僧侶のせいですか?」
「何かに縋って、そして他者へ責任転嫁をしてばかりでは何の解決へも導けません。」
「それが今はどうですか? 皆が一緒に笑顔で見合っています。これが解決した時の姿です。」
「一人の立派な方も素晴らしい、しかし、皆の和で繋がった姿にはそれを超える力がある。」
その後その村は村民一同で治水に力を入れ、用水を巡らし、豊作の恵みに栄華を築いた。
優心和尚からは日頃ほとんど宗教的な話はありません。
貴重な話であったと思います。またその話の中で逆に色々と気持ちを馳せる部分もありました。
なぜ優心和尚が企業、ビジネスの現場に拘って行動を起こすのか・・ということです。
組織体である企業そのものの本質がこの例え話の中にあり、そこでこそ活かされるからです。
長いブログとなってしまいました。何かこの話に気付きを感じて頂ければ幸いに存じます。
合掌